Pathom Vongsuravatana (Wongsurawat) (1934-2011年)


Pathom Vongsuravatana (Wongsurawat)はタイの実業家の息子として1934年にナコーン・ラーチャシーマーにて産まれました。多くの兄弟姉妹の長男で、バンコクの聖母被昇天修道会、次いでイエズス会の神父の下で学びました。並外れた素質を認められ、フランスのボルドーで学んだ末1957年に法学と経済学の博士号を取得しました。

フランス人女性Martine Royと結婚し、タイに帰国後、タイ国際航空の設立に参加。特にこの新会社と合弁相手であったスカンジナビア航空の搭乗員との関係作りを主な役割として活動しました。

同時に彼はバンコクにあるフランス系新聞社の特派員として活躍、モリエール(17世紀に活躍したフランスの劇作家)のようなフランス古典をタイ語に翻訳し、東南アジアの社会運動(インドシナ戦争、ベトナム戦争)に強い関心を寄せました。

バンコク大学で教鞭をとっていた際、情報筋によると彼は野党(反独裁主義)のリーダーたちに親近感を抱いていたと言われています。少なくとも、実父の経営する企業の労働者がフランスに倣って労働組合を設立するのを支援したことは確かです。

1964年にボルドーに移住し、その後30年にわたって、彼はフランスで初めて(売上高に関しては一番ではないにしても)ワインとスピリッツを販売する代理店網を作り上げました。

1972年には日本にアルマニャックを紹介し(14ページにリンク)、日本は1978年に世界最大の市場となりました。当時、彼の代理店は日本市場のシェアを50%以上占めていました。

1985年の革命期には、直接販売という戦略によって、アジアにおける大手メーカーによるコニャックの事実上の独占販売に終止符を打ちました(15ページにリンク)。

外務大臣でありASEANの創設者であるThanat Koman(16ページにリンク)と長年の親交があった彼は(16ページにリンク)、1994年、事業引退の際に在ボルドー タイ王国領事に任命されました。彼は若い頃同様に道徳と正義に基づき、積極的に領事としての責任を果たしました。

1980年代には、首相であり1930年代に父と親交があったチャートチャーイ・チュンハワン陸軍大将を激しく非難しました。領事に就任すると間もなく、タクシン・チナワット首相(赤シャツ隊)の金儲け主義と利益誘導主義を批判すると同時に、自称王党派(黄シャツ隊)に対しても偽善者だとして非難しました。

こうした勇気ある姿勢と同時に、シェイクスピアの戯曲もタイの詩人Sri Prajの詩も延々とそらんじる事が出来るなど2つの文化に根ざした幅広い教養を身につけていたことから、多くの人が彼を賞賛しましたが、一方で反感を買う事も少なくありませんでした。

また、彼はタイ王国において、同国内でのワイン産業(17ページにリンク)の拡大と90年代初頭のシャトー・サン・ロー(Château Saint-Lô)(5ページにリンク)の買収に参加した事でも非常に有名です。

父親はタイ北東の仏教協会の会長だったにもかかわらず、彼自身は若い頃にカトリックに改宗し、生涯信仰深い人であり続けました。




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